サリンジャーに憧れて

『ライ麦畑の反逆児』という映画を観た。

タイトルにもある通り、『ライ麦畑で捕まえて』を書いたJ.D.サリンジャーの作家としての生涯を描いた映画で、これが個人的にだが心に響いた。

サリンジャーの葛藤。これは物書きというか、表現者としての葛藤と言っていいかもしれない。

まずそもそもはレールに乗った進路か、作家としての道を進むのか。

書き始めた頃には自分の伝えたい言葉である「声」と、全体像である「物語」のバランス。それは後にサリンジャーが徹底して描きたかった子供であるリアリティーと、大人の出版社が求める、いわゆる「インチキ」との葛藤とも重なる。

戦争を経た書くことへの恐怖を書くことで克服していく。

そんな彼の人生自体が一つの物語として語られるこの映画で、僕は改めて何かを書きたいと思った。

作家になるための覚悟

作家になるにはどうしたらいいのか。

何も見返りがなくても書き続けられるのか?

それが作家になるための条件。インチキでない作家になるための条件。

彼は本物の作家だった。

僕はどうなのか。この台詞が映画で出た時、「一生書くことは辞めないだろうな。」という直感があった。文章を書かなくなる未来が描けなかったという方が正しいかもしれない。

書くこと。それは出版とかそういう話ではない。いわゆる出版なんかできるかは全くわからないし、ちょっとしか期待していない。

今のところは見返りも、書くことそのもので得られる充実感のような物で十分だ。

サリンジャーも劇中で言っていた。

「なぜ書いているんだ?」

「書くと感じたことがハッキリするんだ。」

書くことは魂の彫刻だ

書くことは魂の彫刻だと思う。

これは別にサリンジャーが言っていたわけではない。僕が勝手に脳内でしっくりきた言葉だ。

石から女神を彫刻するミケランジェロではないが、文章を書く時、自分の中にすでにある形に沿って言葉を削り出しているイメージが湧く。

これは書くことに限らないかもしれない。何かを表現することは、自分の魂の形を見えるようにすることだと思う。

サリンジャーは「書くことは祈りだ」と言った。

今の僕は、物語というものに惹かれている。

僕が読んだことで得られた感動や気づきを自分も与える存在になりたいのか。

普段の生活で溜まっていく言葉を吐き出したいのか。

それともサリンジャーへの憧れか。

多分全部だろう。

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