ビジョンクエスト3日目

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迎えた3日目

雨は小降りだった。

天気予報は覚えていないが、おそらく降ったり止んだりが続くであろう。分厚い雲が油絵のように空に塗られている。気温はかなり落ち込み、薄手な服装を少し悔いた。今日も今日とて尿意は止むことはなく、ノソノソと寝袋から這い出して用を足す。

「飲んでないんだからちょっと節約しろよな。」

そんな小言を体にぶつけながらも、想定していたよりも健康的に過ごせていることに感謝する。我が肉体ながら、なかなかに丈夫だ。喉の渇きや食欲も特に感じない。立ちくらみなどもまだないし、これなら残りの日数も余裕がありそうだ。

かなりの貧乏性はいまだに健在で、普段から断食をしたり、床に寝袋で寝たり(ベッドもあるのに)、エアコンや暖房器具も滅多につけない。そんな自然に順応していくスタイルで過ごしてきた甲斐もあってかそこまでの辛さは感じなかった。

寝袋や服もちゃんと濡れずにいたので篭っていれば安泰な生活が保障されている。

逆に言えばみんなのことは心配だった。ブルーシートや寝袋を持たずに行った人もいたし、かなりの雨の中で濡れて凍えているんじゃないかとも思う。心配したところでどうなるわけでもないのだけど、無事を祈った。

とはいえ、今日に帰るメンバーもいたので、迎えに来るついでに研ちゃんがみんなの様子も確認するだろう。僕はそれなりにサバイバルには自信があるが、そうでない人も多いし、無茶をしている人もいる。僕の装備で雨に濡れて過ごすのであれば今日でリタイアしていただろう。それくらいには寒かった。

そんなことを考えながら遠くの木と自分の指を見て視力回復トレーニングを軽くしていたが、雨は降り続けている。小降りだが止む気配がないので、念の為ブルーシートに潜り込む。チリも積もればなんとやら。現状は体力に余裕があるとはいえ油断は禁物だ。濡れてしまうと一気に冷える。複利的な効果は恐ろしい。

今の感じならばあと2,3日は過ごせる自信はある。僕は我慢強さには定評があるのだ。寒さは嫌だけど。

古い記憶

寝袋に潜り込みながら過去のことを思い出す。一番古い記憶はどこだろう。妹が生まれてすぐの頃に寝室で撫でている姿か(4つ下の妹がいるので4歳の記憶?)、長崎のハウステンボスに連れて行ってもらった時のでかいクマのぬいぐるみの姿か、母親にどこの幼稚園に行きたいか問われて、幼馴染たちと一緒の方を選んだ記憶。後から写真で見たり話を聞いて記憶をつくり出している可能性は高い。人間の記憶はそんなにあてにしない方がいいだろう。今の自分を正当化するような都合がいいものを掘り起こしているにすぎないんだろうから(ここだと良い人間に見られたいとか?)。

写真なども残っていない中で思い出せるのは、幼稚園の年長時代。意地悪をされてすごく嫌だった記憶だ。上履きを隠されたりなんか悪口を言われたような気がする。すごく曖昧だし、これだって今のアイデンティティを守るためにでっちあげてる部分もあるかもしれない。同情してほしいとかね。

だけど感情が乗っかっている記憶で一番古いのはそれかなと思う。いじめられていた彼とは、放課後の体操クラブみたいなやつが一緒でその時間が本当に苦痛だった。母親かおじいちゃんの自転車の後ろで本当に憂鬱だったのを覚えている。初めて人のことを嫌いになり憎んだ。そんな自分もすごく嫌なやつだと思った。なんというか悪い人間になってしまったような。その頃からバイキンマンの方が好きになった。

そして僕は人見知り街道をひた走ることになる。小学校に上がって最初の記憶は、クラスに馴染めないなと感じながら休み時間に一人で砂場遊びをしていた記憶だ。ドッジボールとかチームスポーツは本当に嫌で仕方がなく、迷惑をかけたり目立っていじめられてしまうのが怖かったのだと思う。それ以降も基本的には上り棒とか雲梯とかを一人で淡々とやっていたり、教室で寝たふりをしていたことが比較的多かった気がする。

でも僕は非常に幸運なことに、幼稚園以前から仲良くしていた幼馴染たちがいた。近所に同級生が何人も居てくれたのは本当に僕の人生で指折りのラッキーな事かもしれない。みんなと遊んでいる間は本当に楽しい時間だった。全部が全部というと美化しすぎているけれど。

放課後にみんなと遊ぶ時間が生きがいのようなものだった。学校も同じクラスに仲良いメンツがいる時は楽しかったけど、授業はつまらないと思っていたし、自分はカースト下位の陰キャで目立たない存在だというアイデンティティが強かったからなかなか楽しめない。

いじめられてから僕が思いついた生存戦略ではあるが、あまりいい手段とは言えなかったな。今となってはいい思い出でもあるけれど、もうちょっと青春したかった。恋とか。このアイデンティティの影響も大いにあり26歳にして彼女できたこともない童貞となっている、というのはひどい言い訳だ。今の自分にしか責任はない。どう生きるのか決めるのは今だけと頭ではわかっている。

そんな感じでちょっと歪んでしまってはいたけれど、僕はちゃんと今、生きている。小学5年生の時にまたいじめられてしまった時は「この陰キャ戦略でダメならどうしたらいいんだああああ」と心が病みに病み自殺が頭をよぎったのも少なくない。でも、家族や友人には恵まれていたし、自分の臆病さも相まって、僕は風呂の中で窒息なんかできるはずもなく生き残れた。

ここまで振り返っていて強く思ったのは、僕は本当に恵まれているし愛されていた(いる)ってことだ。いつだって家族や幼馴染たちはこんな拗らせた僕を受け入れてくれたし、心の拠り所になってくれていた。人生に諦めて夢も何もなかったけれど生きる希望が持てたし、感謝しかない。雨に濡れないはずの寝袋がどんどん湿り気を帯びていく。

そこそこちゃんと覚えている記憶

いくら僕の脳がお粗末とはいえ、中学や高校に入ってくると流石に覚えていることも増えてくる。相変わらず授業のことなどはほとんど記憶にないけれど。

小学6年生の時にあった球技大会の影響でバスケが好きになり、中学では幼馴染たちほぼ全員が同じバスケ部になった。おかげでなかなか楽しい学校生活を送れたのを覚えている。僕らの代はやたらバスケ部の人数が多く、僕はずっと3軍だったけど試合に出るのも別に緊張して嫌だったからちょうどいい立ち位置として甘んじていた。元来チームスポーツは向いていない気がする。というよりは中途半端な技能で人前でやることが恥ずかしすぎるのだ。それは今でも変わらない。ある種の完璧主義的な感じである。

高校に入ってからは、流石に幼馴染たちとも散り散りになり、僕は家から近くて偏差値もちょうど良く、中学時代好きだった子も入学すると言っていた高校に入学を決めた。色々と動機は不純だが。

結局その子には高二の夏に告白し、見事撃沈したわけだが今となってはいい思い出だ。長々としたLINEでの告白は思い出したくない黒歴史でもあるけれど。

高校はかなりのマンモス校で同じ学年が800人もいた。一学年20クラス。とはいえクラスは3年間変わらないし、部活にも入らなかった僕の交遊範囲は極めて少なかったから知らない人が9割である。帰宅部のエースとして授業が終わってから即帰宅しゲームばかりしていた。

パズドラをやり込んだおかげで割と友達もできたのは時代のお陰様でラッキーである。たまにカラオケに行ったり今思えば気楽に楽しく過ごしていた。人生に希望はあんまり持っていなかったので刹那的な楽さに激しく流されていただけだから誉められたものじゃないけど。

大学生は人生のモラトリアムだと思っていたのでこちらも文系陰キャ生活を堪能していた。カードゲームやらゲームやら読書やらとかなり引きこもっていたのは記憶に新しい。極めて狭い交友関係の中で遊びながら、時々バイトに行き質素な暮らしをしていた。だけどゼミや本を通していろんな価値観に触れられたから、この時間は本当に大事だったと思う。そんなに志望していた大学ではなかったけど、今となっては運命的なものにも感じる。これも都合のいい記憶の捏造とも言えるが。

それから就活、立志塾、新卒入社、南房総での生活…

気づけばかなりの時間が経っていた。

ひたすら過去を振り返って思う。

恵まれている。愛されている。幸せだ。

食べずとも飲まずとも、何もせずとも、ただありがたかった。

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