仁・愛・慈悲とは何か?その違いと共通点について哲学的に考える。

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孔子が人間関係の基本に据えたという徳。

キリストが説いた隣人愛

仏教思想の慈悲

どれもが似た概念です。

人を愛し、思いやる心。

今回はそんな心について語らいたいと思います。

よろしくお願いします。

仁・隣人愛・慈悲について

仁とは

仁は儒教における王者の徳ともいわれます。

孔子は人間関係の基本として、この仁を挙げ、義と共に

儒教五常(仁、義、礼、智、信)で最も中心的な徳としています。

仁という字の成り立ちは、人が向かい合って座布団に座って、

話し合っている姿を横から見たものだそう。

要はコミュニケーションにおける徳のことですね。

相手を思いやり、相手の立場になって考えられる人。

その道を究めた人を仁者とも呼びました。

隣人愛とは

隣人愛は、キリスト教における中心的な概念の一つです。

それは神の無償の愛、無限の愛から来ています。

天の神は人を一切差別せず、身分や人種も関係なく、

さらには善人に限らず悪人すら救うのです。

それは神からの愛であり、太陽の光のようにどんな人にも平等に降り注ぐ救いです。

それを人と人同士の間でも実行しなさい。

というのがイエス・キリストの訴えた考え方です。

善きサマリア人という話は有名ですね。

ある律法学者がイエスに、隣人とは誰のことか聞きました。

当時、選民思想の強いユダヤ人のコミュニティの中で、サマリア人というのは差別されていました。

そんな中で、イエスが語ったのは次のようなストーリーです。

ある人が、強盗にみぐるみを剥がされ、半殺しにされ、道端で倒れていました。

通りかかった祭司は気づいていながら素通り。

次に通りかかったユダヤ人も通り過ぎていきました。

最後に通ったサマリア人は、その人を哀れに思い、傷の手当てをし、宿まで連れて行きました。そして宿代も支払い、足りなければまた後で払いに来ると言いました。

この中でだれが被害者の隣人であったか?

とイエスが問うと、律法学者は

「慈悲深い行いをした人です」

と答え、またイエスは、

「行って同じようにしなさい」

と言ったという話です。

見て見ぬふりをせず、どんな人にも平等に愛を注ぐことを隣人愛としたのです。

最近の愛という言葉には、「恋愛」的なこととか「性愛」的な意味も入ってきていて、そこが仁とか慈悲と違うのかもしれません。

慈悲とは

仏教用語で、他の生命に対して、楽を与え苦しみを減らすこと(抜苦与楽)を願う心のことです。

慈とは相手への慈しみの心。

それは、相手の幸福を心から願う気持ちです。

悲とは相手の悲しみのこと。

悲しみや苦しみから相手を救いたいという気持ちです。

仏教がキリスト教と違うのは、慈悲は神などが与えるものではないということです。

すべての生命は平等であり、その幸福を願うことを理想としたのです。

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

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ちなみに慈悲の瞑想というのが、非常に科学的にも効果が高いことが分かっています。

興味ある方はぜひ!(一見スピリチュアルですが、実証されてます)

なぜここまで似た概念なのか

仁、愛、慈悲についてみてきました。

全く別の地域、環境にも関わらず同じような概念です。

しかもそれぞれの思想、宗教において非常に重要な概念となっています。

相手を愛し、思いやり、幸福を願う心。

それはなぜこんなにも普遍的に人の心を打つのでしょうか。

それはきっと、人がそういった思いなしには生きられないからです。

人は未熟な状態で生を受け、人に支えられて成長していきます。

もし誰も世話しなければ、歩くこともなく死んでしまうでしょう。

また誰もが、赤ん坊を愛したいという気持ちがわいてくるように、脳の仕組みとして備わっているのです。

それは人間だけでなく、広く哺乳類に見られます。

ベビースキーマといって、赤ん坊の顔を見分けられるのです。

そしてそれに対し愛情を持つ。僕らも動物の赤ん坊は見分けられますよね。

目が顔に占める割合が大きいんだそう。

そういう大人はよく童顔と言われますねー。

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癒されますよね(笑)にやけてしまう。

赤ん坊以外でも、人を愛する気持ち、幸福を願う気持ち、思いやる気持ちは、人の脳を心地よくする幸せホルモン、オキシトシンの分泌を促します。

そうやって人は支えあう社会的動物として生き残ってきたのです。

いや、支えあわなくては生き残れないようになっているのです。

自分がどれだけのものや、思いに支えられて生きているのか。

そこにどれだけ普段から感謝できているか。

そう考えると、慣れって恐ろしい。

でも人は皆本来、仁や愛や慈悲を持つことができるのだと思います。

きっと、誰もが愛を持てるって思うと素敵やなあ。

最後まで読んでいただき誠に感謝しかないです。

本当に支えられています。

ありがとうございました。

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