ー岡本太郎ー
冒頭の言葉もあまりにも有名で、流行語大賞にも選ばれたようです。
しかし、その言葉の真意をくみ取る人はほとんどいない印象。
彼は合理主義、科学に染まった社会に疑問を投げかけています。
彼の芸術観、人生観は多くの人に突き刺さるんじゃないでしょうか。
(少なくとも僕にはぶっ刺さりました)
教の名言は彼の著書『自分の中に毒を持て』からの引用です。
自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)
- 作者: 岡本太郎
- 出版社/メーカー: 青春出版社
- 発売日: 1993/08/01
- メディア: 文庫
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彼の真意をくみ取れるようにがんばりたい。
よろしくお願いします。
過去の蓄積
人生は積み重ねだと誰でも思ってるようだ。
ぼくは逆に、積みへらすべきだと思う。(中略)
過去の蓄積にこだわると、
いつの間にか堆積物に埋もれて
身動きができなくなる。
誰しも、常識や、他人の目という見えないもので自分を縛っています。
それは、最初はもっていなかったはずなのに、
いつの間にか絡みついて、狭い中でしか生きれなくなっているのです。
どんな経験であってもそれは自分を1つの見方にとらえてしまうものになりかねません。
一度で成功した人ほど、その成功にしがみついてしまいます。
それらを捨て、改めて自分の頭で考えること。
そうしなければ自由な生き方はできないのです。
安全な一生とは
自分を限定してしまい、
その程度の人生だと諦めてしまえば、
これは安全な一生。
(中略)
自分のことが自分でわからないのに、
勝手に自分はダメなんだと見切り、
安全な道をとってしまう。
人は安全なほうへ、楽なほうへ気づかぬ間に流れてしまいます。
それが本当に自分がやりたいことでなくとも。
だから強く自分というものを持たなくてはいけない。
絶対的な自分のこだわり、軸、価値観があれば、
迷いなく進むことができます。
それは安全な道ではないかもしれません。
困難なことや危険なことが、挫折が多くあるでしょう。
でもそこで諦めるのではなく、自分を貫く。
自分はそんな風に強く生きれないと感じるかもしれません。
でもそっちのほうが自分が生きている実感が得られるはずです。
人間はきっとその生の実感のために生きているのではないでしょうか。
素晴らしい作品
たとえどんな作品でもすばらしいと感じたら、
それはすばらしい。
逆にどんなすばらしい作品でも、
つまらない精神にはつまらなくしか映らないのです。
作品は少しも変わっていないのに。
自分がすばらしいと感じたものはすばらしいものです。
どんなものにだって愛着や、手に入れるまでのストーリーがあります。
表面だけでなく、内面や歴史など、見えないものを感じられるようになれば周りはきっと素晴らしいものにあふれているはずです。
自分の作品や表現が誰かに否定されたって、自分がすばらしいと思えたなら、分かってくれる人は絶対に居るはずです。
行動を否定されたときもそうです。自分が正しいと思って、素晴らしいことだと思ってしたことなら、きっとわかってくれる人がいます。
本当のプライド
他人に対して自分がどうであるか、つまり他人は自分のことをどう見てるかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。
プライドがあれば他人の前で自分を良く見せようという必要はないのに、他人の前に出ると自分を良く見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。
比較は、時には競争などで自分を高めてくれることもあるかもしれません。
切磋琢磨とも言いますね。
しかし、他人との比較は本当に必要でしょうか?
自分は自分。ありのままの姿、弱さも強さもさらけ出して、それでもこれこそが自分なんだと本気で言えるのが本当のプライドです。
他人と比べるのではなく、常に自分と戦う、それが岡本太郎の生き方でした。
人前だからと取り繕うことは、プライドではなく、コンプレックスにすぎないのです。
それは本当の意味で自分を信じられていないということ。
絶対的な自分を見つけ、貫き、たとえぶつかっても雄々しく。
そんな生き方カッコいいじゃないですか。
完成
この世の中に完成なんてものは存在しないんだ。
完成なんてことは他人が勝手にそう思うだけだ。
世の中を支配している基準という、意味のない目安で他人が勝手に判断しているだけだ。
完璧や完成など人生においてないのです。
だからある程度の基準をひいて、これで完成だ、と満足する。
ですがそんな基準にとらわれて、それで完成だと満足したら、新しいものや革新的なものは生まれません。
基準なんて意味がない。基準は相対的なものでもあります。
世の中の評価などが変われば基準も変わります。
そんなものに振り回されて生きることはないのです。
こんな言葉も述べています。響きました。
基準なんてものは度外視して、自分は下手なんだと決意すれば(中略)
ナリフリかまわず自由に動くことができるだろう
どこまでも自分というものをありのままに認めることです。
下手なら下手でいいんです。失敗したっていいんです。
そのほうがおもしろいと思えるくらいに平気でいればいい。
自由に生きるにはそんな強さと自信が必要なのです。
芸術とは
ぼくが芸術というのは生きることそのものである。
人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する。
その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。
芸術とは生き方そのもの。
自分が本当の意味で渇望し、進みたい道を貫くこと。
そこには痛みや葛藤があります。たくさんの障害にぶつかります。
安全で楽な道ではありません。
でもそれが人として生きるということではないでしょうか。
自分というものを捨ててまで生きることに、意味があるでしょうか。
芸術についてこうもいっています。
芸術はきれいであってはいけない。
うまくあってはいけない。
心地よくあってはいけない。
それが根本原則だ。
きれいさ、うまさ、心地よさは、美とは違います。
美や芸術とは、たとえ醜くとも、下手でも、心地が悪くても、人間として自分を無条件に危険にさらし、死に対面し、死と対決するために自分を燃え上がらせることです。
それが本来生きる意味のない非合理なこの世界で、生命感、運命を爆発させることなのです。
以上で終わります!
僕も自分が信じたい道を、あがいてあがいて貫いていけるような強さや、ありのままの自分を認めながらもそれと戦い続け、高め続けるような生き方をしていきたい!
人生は爆発だー!
最後まで読んでいただき誠に感謝です。
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