志の章

こんにちは!REALIZE運営のむとぅです!今回は立志塾の最も大きなテーマである「志」についてまとめています。
学んでいく上でも根本となる話なのでぜひ最初にお読みください!
併せてYouTubeも是非〜!

志とは

そもそも「志」とは何でしょうか?

「夢」との違いは何でしょう?

結論から述べると志とは公共性のある目的であり、夢とは自分個人の欲求(やりたいこと)です。

そう聞くと志を持つことは自己犠牲のような感覚に陥る人もいるかもしれません。「世のため人のため」なんて、聞こえの良い偽善だと思っていた時期が僕にもありました。

ですが立志塾で目指すのは自分が本当にやりたいことでかつ、社会的に意義のある目的となる志を持つことです。自分の幸せを追求していった先に他人の幸せが重なる部分がある。むしろ他人の幸せこそが自分の幸せにも大きく繋がっている。学べば学ぶほどそんな感覚になっていきました。

もちろん自分がただ楽しいと思える夢はあった方が良いと思いますし、必ずしも志があることが絶対正義だというわけではありません。

ですが志を持つ方が圧倒的におすすめです!!

その理由をこれから説明していきます。

志を立てるのに、老いも若きもない。そして志あるところ、老いも若きも道は必ず開けるのである。

松下幸之助

気高い夢を見ることだ。

あなたは、あなたが夢見た者になるだろう。

あなたの理想は、あなたがやがて何になるかの予言である。

ジェームズ・アレン

なぜ志が必要なのか?

志が必要な理由。それは志があらゆるものの種だからです。

種を蒔かなければ実ることもない。

植えた種は全く違う植物に育つことはありえません。だからどんな種を蒔くのかを真剣に考えなければいけないのです。

とうもろこしが食べたいのにカボチャの種を植えても、とうもろこしは収穫できません。

人は自分のまいたものを、刈り取ることになる。 

『新約聖書』ガラテヤ人への手紙 6:7-8

限りある自分の命、人生の時間を使ってどんな木に成りたいのか。

その根本がなければ、社会や周りの影響を受けて流されて、たくさんの種を植えては枯らすことになりかねません。もし育て上げたとしても本当に自分が欲していたものでない可能性も大いにあります。

だからどんな想いの種を持つのか、つまりどんな志を持つのかが根本であり重要なのです。

少し理想の世界を思い描いてみてください。

軽くでも想像してみたでしょうか?

きっと嫌いなものよりは大好きなものに囲まれてる方が心地いいでしょうし、嫌いな人よりも大好きな人に囲まれている方が幸せだろうし、荒廃した世界よりも自然豊かな世界の方が気持ちがいいでしょう。そしてそれぞれが生き生きとしている方がきっと楽しいでしょう。

人間は社会的な動物です。遺伝子は周りに利他的にすることで生き残ってきた側面も多く持ち、脳の構造も他人の幸せを自分の幸せと感じるようにできています。だから自分の行動によって、より多くの人がより大きな幸せを感じることが、自身にとって最大の幸せになるはずです。

そんな志は「達成して終わり!」というようなものではありません。志という道を進む中でより多くの人の幸せを考え実践し、たくさんの学びを得ていく中で、太陽を求めて木が枝を広げるように、自分の器や志はどんどん広く大きくなっていきます。終わりがない道を歩むことが志のある人生なのです。

そんな志のある人生を生きることは、下記のような付加価値をもたらして人生を豊かにしてくれます。

 ・自分も相手も幸せになる道を模索するからこそ、敵がいなくなる。

 ・具体的な終わりのない志だからこそ、生涯暇をしない。

 ・終わりがないからこそ、過程の全てが達成でありいつ終わりを迎えても悔いが残らない。

さて、志を持たない理由がなくなってきたかと思います!(笑)

次項では志を立てるためには具体的にどのようにしていくのか考えていきましょう!

立志法(志を立てるには)

こちらの記事でも触れましたが、志を立てるためには

「自分の内面を深く知り、世界への理解を広げ、その結び目に志が立つ。」

すなわち自分が本当にやりたいことと、世界に必要とされていることの交点に志が立つということです。そしてより善い志のためには「愛と智」を深めることが必要となります。

「智」は何度も述べている通りで、この「立志塾の教科書」で学んでいく自分と世界についての深く広い理解。あらゆる知識を学び続ける中で視座は高く、視野は広がり、視点が増えていきます。より本質的に自分の人生をどう使うのかを考えて実行していくために必要なことです。

そして志を立てるのに「愛」もまた重要です。

「愛」とは何か?という問いだけでも十分に議論する価値はあるのですが、ここで述べる愛とは儒教や武士道で言う「仁1」やキリスト教で言う「隣人愛2」、仏教で言う「慈悲3」に近い概念です。

性愛的なものではなく自他の区別なく相手を思いやる心のこと。

「助けたい!」「救いたい!」「より善くしたい!」といった心です。

なぜ愛が重要なのかと言えば、自分の心から湧いてくるものだからです。逆に言えば「愛」がなければ真の志とは言えません。それは心のない志は道理から逸れたものになりかねず、自己犠牲的で挫折に終わってしまう義務や使命感になってしまうかもしれないからです。

どういうことか。愛のない志は単に外部の情報に紐づいて形作られたものでしょう。「これが必要とされているから」「この問題を解決しなくてはならないから」「こうすることが正義だ」というような社会から植え付けられた価値観によって規定されており、自分が本当にやりたいことなのかは含まれていません。また、「正解」に盲信して手段に囚われることにもなりかねません。何が最善かは状況によって変わるにも関わらず、相手を尊重せず独りよがりのものになってしまう可能性があるのです。

そもそも愛情がなければ人は他者に対して「無関心」になります。助けたいという想いもなしに本当の志は生まれません。だから、愛情を深めていくことは知識を深めること以上に重要で、より根本的に必要なものなのです。

「愛」を深めるにはどうしたらいいのか?というテーマはまた深掘りたいと思いますが、一つは「気づき感謝すること」だと思います。「自分がどれだけの自然や人々の支えの中で生きているのか」「どれだけの恵みや愛情をいただいて生きられているのか」そこに立ち返ると畏敬の念や共感、返したい、愛情を持ちたいという想いが生まれてくるはずです。なので「愛と智」は相互に関連して深みを増していくとも言えます。

両方を深め続けることがこの「立志塾」でのテーマであり志を立てるために必要なことだと言えるでしょう。

まとめ

今回は立志塾の根本となるテーマ「志」についてまとめました。

「愛と智」を深めて、自分の本当にやりたいことと世界で本当に必要なことを考えて歩むこと。

一言で言えばそれが志を持った人生であり、そんな人を増やしていくことがより善い世界を創造していくことに繋がると思います(これが僕らの志とも言えるかもしれません)。

色々と述べましたが志を持って生きることは何よりも個々人の人生を豊かにしてくれます。大きな志は沢山の人の共感を呼び、巻き込んで同志として一緒に歩むことができます。もちろんやりたいことは人それぞれ違いますが、同じ山を別々のルートから登るようなもので、それによってお互いに勇気づけられ、より善い世界が実現していくんじゃないかなと思います。それは果てしない山ですが、だからこそ一生をかけて歩んでいくことができるのです。

読んでいただきありがとうございました!

僕自身もまだまだ未熟なのでもっともっと学びたいなと思っています。

一緒に山登りができたらいいなと願って。

  1. 仁は儒教における王者の徳ともいわれます。孔子は人間関係の基本として、この仁を挙げ、儒教の五常(仁、義、礼、智、信)で最も中心的な徳としています。仁という字の成り立ちは、人が向かい合って座布団に座って、話し合っている姿を横から見たものだそう。相手を思いやり、相手の立場になって考えられる人。その道を究めた人を仁者とも呼びました。
  2. 隣人愛は、キリスト教における中心的な概念の一つです。それは神の無償の愛、無限の愛から来ています。天の神は人を一切差別せず、身分や人種も関係なく、さらには善人に限らず悪人すら救うのです。それは神からの愛であり、太陽の光のようにどんな人にも平等に降り注ぐ救いです。それを人と人同士の間でも実行しなさい。というのがイエス・キリストの訴えた考え方です。
  3. 仏教用語で、他の生命に対して、楽を与え苦しみを減らすこと(抜苦与楽)を願う心のことです。慈とは相手への慈しみの心。それは、相手の幸福を心から願う気持ちです。悲とは相手の悲しみのこと。悲しみや苦しみから相手を救いたいという気持ちです。仏教がキリスト教と違うのは、慈悲は神などが与えるものではないということです。すべての生命は平等であり、その幸福を願うことを理想としたのです。

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