思いついたことをつらつらと

記憶は曖昧に溶けていく。
時間なんてものは存在しない。ただ宇宙は膨張しているしそれに沿ってエントロピーは増大しているし、僕らは煩雑になっていくその存在のピースたちを時間なんて呼び方をしている。それらを切り取ってはめ込んだところで何にもならないのに、せっせせっせと、これはあそこにはめるんだ、いいやあっちだなんて当て込んでは歪んだパズルを組み上げていく。

それが人間だ。

答えもないのに答えを探し、ぴったりくるものなんてありやしないのに運命を信じ、僕らはそんな愛を信じている。
それは作り上げたパズル同士がより大きな一つの絵になるようなもので、そんなことはあり得ない。
棒と穴がキッチリとはまったところでそれは一つの要素でしかないし、はっきり言ってどうでもいい。
一夜限りの愛はインスタントな愛だ。

じゃあ愛ってのはなんなんだ。
愛とはもっと無条件でパズルなんて実は関係がない。
相手の全てをはめ込もうとしたって、身体同士がくっついていたって関係がない。
距離も関係ないし、そもそもきっと存在しないものだ。

お互いがお互いの知らないことも含めて全てを尊重していること。
変化し続ける世界でより良く続いていくように願うこと。

自分で書いておいてなんだけど、こんな文章はなんというか何も文学的じゃない。
こんな表現なんてのははっきり言って糞食らえだ。
もっと普段は使わないような表現が欲しい。
でも普段は使わない表現が文字であれば出てくるなんてのはおかしな話だ。
いつもは引っ張り出さないような衣装ダンスの引き出しを無理矢理にこじ開けて、ぎゅうぎゅうに詰まった訳のわからない塊の中から意味のある組み合わせを見つけるようなもので、とにかくいっぺん出し切って整理するしかないのかもしれない。
表に見えているハンガーにかかったジャケットは誰にでも見せる収納だけれどそんなものは何も面白くもない。
いわゆるチープな表現でしかない。

もっと深いところにあるのに自分の存在を支えてもいない、歯牙にも掛けないような表現こそが文学的な表現だ。
こんな言葉を使う必要性はないのに、格好つけて使いたくなってしまうような在庫を放出していくのが文学だと思う。
適切で分かりやすい必要性もない。
意味がわからなくてもなんとなくイカしている。
ただの退屈な日常がより際立って鈍く光るような感覚だ。
退屈さを求めることもある。
ファンタジックな世界とは違う。
本当にどうでもいいような一つの場面に聞いたこともない表現がぴたりと当てはまって見えるのが心地いいんだ。

そう。当てはまっていなくたって構わない。特殊で非日常的な表現によって僕らの日常が彩られているのがたまらなく気持ち悪くて、それでいていつまでも心を離れず、また読まずにはいられない。誰にだって別に好きでもないのについ嗅いでしまう匂いがあるように、僕は本を読んでしまう。ありきたりすぎる日常の中で僕の脳内にあるものとあまりにもかけ離れた、頭にもなかった表現を目にするたびに、どうしたらこんな風に世界を切り取って描写できるのかと頭を抱えてしまう。

それらを集めて集めてストックしたところで、僕の中から溢れ出すことはまずない。
目にした時に立ち止まってハッとするような言葉を探り出したい。
誰かの心に残るようなものでなければいけない。そんなことはない。ただ自由にカッコつけて表現したい。
使いきれなかった道具たちを伸び伸びと使ってやる感覚なんだろうけど、僕はその道具たちを持ってすらいないのかもしれない。

たまになんともなくしっくりくる文章が書ける時もある。
そんな日には踊り狂って叫び出したくもならない。
ただじんわりと満足感を覚え、別に誰に見せる訳でもない文章を読み直しては感心するだけだ。
よくもまあ僕からこんな文字の羅列が生まれたもんだってね。
そんな時に自信が生まれるのかもしれないなんて思うけれど、人に見せたらその微かな自信すらいっぺんの揺らぎのように過ぎ去ってしまうだろうと思う。

でも恥ずかしさとはなんだろう。
自分に似つかわしくないと感じる心の動きだろうか。
自分の行動が、他者から見て、世間体と照らし合わせておかしなことに感じること。

黒歴史とかいうことをよく耳にする。自らの汚れた歴史、汚点、恥ずかしい過去、言いたくないエピソード。
だけど本来は全ての現象は無色透明だ。
黒く塗っているのは実は自分であって、それを黒と認識することで現実との辻褄を合わせている。
過去に何をしたかなんてのは未来にも今にも何にも関係ないのに言い訳に使うわけだ。
あんなことをした僕は悪い人間なんですってな具合に。
できないことを証明するためのものにしてしまっている。

僕にとって、できない自分を証明することが存在する意味だった。
「なせばなる なさねばならぬ なにごとも なさぬはひとの なさぬなりけり」
人は可能性を秘めていて、実現できないことなんてない。俺以外の人間はね。という具合だ。
自分が特別になるためには自分だけはどうやって足掻いてもできない存在でなければならないという特別感が必要だった。
できない人間であるために歴史の教科書を黒く塗りつぶして人に誇示していた訳で、言ってしまえばダサい。

すぐに自己否定を起こしてしまうのもそれが根強くあるのかもしれない。
特別であるための戦略だ。
うん、本当に面白い生物だと思うだろう。

こうやって訳もわからないエッセイともつかない文章を書いていくとぶち当たるのは大抵自分のことだ。
視野が狭くて自分に夢中って感じかな。
セックスもしたことがない僕が愛を語るなんてのは、理論だけを偉そうに喚き散らす経済学者みたいなもんで、その数式はなんの意味も持たない。何も証明できてやいない。

だからこそ面白いとも言えるんだけれどね。
面白がっている自分もいるんだ。
愛とはなんだろう?と25歳童貞の僕が真剣に考えている姿を見れば誰かが勇気をもらえるかもしれないしね。
本音を言えば穴に棒を突っ込んでみたいし、それが愛なのかもしれない。
でももしそれが愛だったら僕はまだ愛を知らない。
そんなことを恐れている。

自分すら愛することができない人に、他人を愛することなんてできない。
存在しているだけでもいいんだって自分に言えるかな。
口先だけではいくらでも言えるんだから。
そんな面倒臭い彼女みたいな自分が突き返してくる。彼女もいたことないのにね。
これは別に自虐じゃない。ただの事実。

僕は僕のことをそこそこいけてる奴だと最近はまあそれなりに思えてきているし、自分の人生は面白いとも思う。
モテたいとも思うし彼女も欲しい。
下心を持つことに罪悪感を覚えすぎた結果、どうにも外から見えづらいらしい。
もっと全面的に押し出していかなくちゃいけない。
本当に欲しているのならね。

本音ってのは難しいよ。
僕の中にはいろんな自分がいる。
この話題にだって無数の人格が口を出してくる。

本当に欲しているならもっとこう動くだろうとか、別に面倒臭いだけだって言い訳をする自分や、さっきの自分を愛せないやつは他人もねみたいなことを言ってくる奴もいるし、眠いとかうざいとかお祭り騒ぎだ。
なんにしても今日はここまでのようだ。あとは酒でも飲んで寝るんだ。
幸せだ。

でももっと文学的なものが書きたかったな。

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