哲学しようぜ! 自分とは何だろう ~ありのままと理想~

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oh oh oh 

最近は自分探しばかりしていた武藤です。

 

 

今回は、自分とは何だろうか?

という抽象的な話から、僕自身の内省までしていこうかなーという感じです。

よろしくおなしゃす!

 

 

自分とは何だろう

さっそくですが自分とは何でしょうか?

 

「いやー、そんなんわかるやろ、わいはわいやで。」

 

という人から、

 

「単一の共通遺伝子を持つ存在でーどうたらこうたら」

 

という人まで様々だと思いますが、

 

考えてみるとこの質問、結構難しい。

 

例えばクローンとか、双子。

 

哲学の思考実験でもスワンプマン*1とかも有名ですかね。

 

あとはこのドラえもんのどこでもドアの話も昔大好きでした(笑)

noexit.jp

 

派生して哲学的ゾンビの話とかおもろいんですが、まあその辺は今日はおいときましょう。

 

なんか現実離れしているように思えそうですが、もし今後、自分の細胞の状態すべてをデータ化して保存できるようになったら、自分は復元できるでしょうか?それは自分と言えるでしょうか?

 

うーん、なんとなく気持ち悪いですね。

 

後は、どこまでが自分なのかという話とか。

例えば臓器移植や、人工の手足など。

 

移植された手足は自分でしょうか?

人工のものであっても?

なら眼鏡や車いすは?

 

バカげているように感じるかもしれませんが、拡張した自己も自分自身だとするなら、スマホやパソコンだって自分を構成するものと言えるんじゃあないでしょうか。

 

 

まあ結論的なのはそんなに出て無さそうな感じですかねー。

 

ぼくが思うのは仏典のナーガセーナさんに近いです。簡単に言うと、一個一個の部分部分だけでどれが自分か、とかじゃなくて全部含めて自分じゃん。という感じ。

ミリンダ王の問い – Wikipedia

 

僕の思う自分

僕は前のに付随して、体だけじゃなくて経験まで全部ひっくるめたものが自分であり、その一生は自分であると思います。ロックのタブララサ*2に近い感じ。経験論ですね。

 

ちょっとわかりにくいので、説明していくぜ。

 

全部ひっくるめてというのは、経験したすべて、及び関わったすべてのものが自分を構成しているということです。

 

例えば僕がこのブログを書いたという経験も、宇宙の歴史の一瞬ではありますが確かに事実として存在していましたし、僕の脳のどこかしらには保存されているはずです。

 

だからこれも自分。正確には書いている間生じた感情や記憶が自分を構成しているということです。それに加えて、僕が関わってきたすべてのものは、同じように僕の記憶や感情として残っているはずです。たとえ思い出せなくても。

 

たとえどんな些細な出会いでも、それは自分を構成し、その経験が自分を唯一無二にしていると思うんです。どこにも同じ人は存在しないし、誰だって自分にしかないものを持っている。

 

でもクローンとかはどうなのかと。記憶も全く同じだったら。

 

僕は、それは自分ではなく他人だと思います。たとえ全く同じデータで構成されていても。

 

なぜなら、それは記憶の上では同じ経験をしているかもしれませんが、事実ではないからです。その時は存在していなかったのですから。

 

この世は無常で、宇宙のすべてのものが同じである瞬間は二度と存在しない。だから全く同じ自分なんて存在しえないんじゃないかなあ。

 

そして、クローンとして生まれたという事実がある時点で、自分とは全く別の経験を持った他人であるとも言えます。

 

この一生が自分です。たとえ記憶がなくなっても、僕が僕であることを失うわけではないのです。

 

ありのままの自分って何だろう

 

ありのままの自分、自分らしさって何だろう。

そんなことを考えたのは何回目かわかりません。

 

 

自分探しの旅とか、瞑想とかいろいろ方法はあると思いますが、自分の過去と向き合うのが結局、ありのままを知ることだなあとつくづく思います。

 

とはいえそれだけではないんですが。

 

それはさておき、僕の過去を振り返ってる中で色々気づくこともありましたので、書いていきまうす!

 

今の価値観は過去の感情が原因

僕の価値観とかクセ(思考も行動も含め)にめちゃくちゃ影響してるのはやっぱりいじめでしたねー。それはいじめがどうとかっていうよりは、一番最初の記憶がそれだからでもあると思います。自我の目覚めってやつですかね。

 

僕が感じたのは恐怖でした。

 

今の自分を否定されたことによる恐怖。

僕は自分の感情を表に出すことが怖くなりました。

嫌われないように、否定されないように、どうしたらいいのか必死に考えたのだと思います。

 

その結果、僕は弱い自分を見せないように頑張ろうとしました。

まあ、泣いちゃだめだと思えば思うほど涙は出て、そんな自分をどんどん嫌いになりましたね(笑)

 

だれにも相談なんかしないと決意しました。

強がりました。誰にも頼らないと。

 

何事にも本気を出さないようにしました。

全力の自分が否定されたらと思うと怖かった。

だからおしゃれもしなかったし、自嘲的な笑いとかも癖になってました。

 

相手を否定しないように、嫌われないようにめちゃくちゃ気を使いました。

その不自然さが伝わって逆に嫌われただろうこともしばしば。

 

そして、代わりに自分自身を否定しました。

何があっても自分が悪いんだと。自分のことを責め、嫌いました。

 

まだあると思いますが、最近もこれら全部残ってますねー

うーん根深い。

 

そういう風に積み重なってきた経験が自分です。だから悪い風に書いたけど、これら全部が自分自身。否定しないでちゃんと見てあげると、いろいろ見えてきました。

 

長所も短所もない

よく長所、短所について聞かれますが(就活とかか?)それは積み重なって在り方になった自分の価値観やクセの見方が違うだけにすぎないと思います。

 

僕は、人に嫌われるのが怖くて、人に優しくできるようになりました。

人に嫌われるのが怖くて、一人で考えるのが好きになりました。

人に嫌われるのが怖くて、どんな価値観でも受け入れられるようになりました。

そしてマイナスを知っているからこそそういう人たちに共感できるし、このブログも書けてます。

 

だから、どんなことも自分のとらえ方次第なんだと思います。

いいことも悪いことも、勝手に自分が判断しちゃってることが大半なんだと。

 

ありのままの自分で生きるのは、それに気づいて、自分を認めてあげることから始まるんじゃないかな。

 

これからの自分

でも、それだけが自分ではないんです。

そう、これから先の人生も含めて自分なのだから。

 

だから過去には感謝し、それを活かしつつも、理想の自分を創っていくこともできる。

 

それには時間もかかるかもしれない。

昔の自分が邪魔をしてくるかもしれない。

 

それでも強く願い、行動すれば変えていける。

 

一昨年くらいの僕じゃこんなことを考えているなんて思いもよらなかった。

 

自分の人生なんてちっぽけで、広大な宇宙のごみクズで、無限にある時間ではたった一瞬しか存在できない。人生に意味なんてないんじゃないか。そんな風にしか考えてなかった。

 

でも、今では、理想の自分をクリエイトしていくのは、多分どんなゲームよりも楽しそうだと思う。

 

楽しく生きることがこの人生でやるべきことだとも思う。

だから本当の楽しさは何か、何が本当の幸せかをちゃんと考えたい。

 

理想の自分に向かって、無理はせず、自然に。ありのままに。

 

 

*1:沼で雷に打たれて死んだ男。その男と全く同じ原子の状態で沼地から男のコピー(スワンプマン)が生まれる。スワンプマンは死んだ男と全く同じ脳の状態でもあるので、生前の男と変わらない行動をする。果たして、意識とは?自分とは?みたいな話

*2:タブラ・ラーサ – Wikipedia

2 件のコメント

  • コメント嬉しいです!
    僕もいくつか記事読ませていただき、共感しました!(ブログのやつとか)
    よろしくお願いしますmm

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