先日、武士道について書きました。
僕の人生の軸にしていきたいと思っています。
でもそれは口先だけだったのかもしれない。
とっさに出る言葉や思考、行動は
僕の理想とは程遠い。
そうはっきりと自覚したからです。
人に言われるまで気付かなかった。
情けない。向き合ってるつもりだった。
言葉には無かったけど行間から感じたこと。
それは自分の内なる声となって響いた。
武士道に生きると言ってるけど、口先だけ。
本気で思ってなんかいない。
本気をバカにするな。
お前は武士なんかじゃない。
何も成長していない。
何も見えちゃいない。
行動も出来てない。
それなのにやりたいこととか戯言をぬかして、
わがままばかりで傲慢だ。
成長や徳だとかって
都合のいい文句を並べ立ててるけど
なんの説得力もない。
信頼できないクズ人間。
そういう言葉が浮かんで、
自分の胸が締め付けられた。
でも何も言い返せなかった。
口をついて出る言葉は、
薄っぺらいただの言い訳だった。
ただただ自分の、
無責任と不甲斐なさと情けなさに涙が出た。
悔しさ。悲しさ。憤り。恥ずかしさ。
そんな感情がうずたかく積まれた。
確かに最近は、
ありのままの自分を見ることから逃げていた。
生き恥をさらして生きていたのか。
今日はそんな自分を内省して、
エッセイ風にまとめました。
よろしくお願いします。
論語読みの論語知らず。
そんな風になって満足している。
そんな自分がいました。
偉そうなことをいって、
人徳者ぶっている自分。
約束を破り、無責任な自分。
自分の心にうそをつき、流される自分。
どんなに高尚な思想を持っていようとも、
実行しなければ、何も現実は変わらない。
自分に対しても。人に対しても。
有言実行。言行一致。知行合一。
全然できてやしないじゃないか。
土壌を荒らす雑草。
自分はなんて未熟なんだろう。
口から出る言葉に重みも説得力もない。
薄っぺらで、偽善者で、傲慢で。
楽なところにとどまって。
そんな自己嫌悪はいつでも、
僕の思考の中で自然と、
雑草のように、
次々と生えてきます。
それを見て見ぬふりをして、
手入れの行き届いていない土壌から逃げて、
自分をないがしろにしていた。
そして人に言われて、
そんなことになっていることが指摘され、
絶望しニヒリズムに走るのです。
振り返るたびに、
溢れる雑草によって土壌は荒れ、
土の栄養は無くなり、
それを見てまた嫌気がさす。
繰り返す悪循環。
一度きれいにしたとしても、
後でまた汚れていることに気づいて。
そんな自己嫌悪を、
過去の自分や経験、他人のせいにして、
言い訳をした。
言い訳はいくらでも作れました。
それがまた土壌を荒らし、
志の種は根を張らず、芽吹かない。
そんな状態になるまで気づきませんでした。
いや、気づいていたけど、
まだ大丈夫、まだ大丈夫と先延ばし、
ありのままの現状を、自分の醜い姿を、
見ようとしていなかっただけです。
現実逃避。
薬物依存症と変わりません。
現実から逃げる。
そのために自己満足できるような
なにかにしがみつく。
自分の心地いい状態を正当化する。
僕は、理想の自分なら、
かっこいい自分だったらどう選択するか。
そんな評価軸で行動を決めていこう!
そう決心していたはずだった。
でもその軸は曖昧で、
すぐにどこかへ飛んでいき、
残ったのは変われていない自分。
そんな自分は事実です。
過去の事実を変えることはできません。
武士道という軸。
でもそんなありのままの自分を、
改めて受け入れて、
やっと、また前に進めそうな気がしています。
また、武士道というものを言語化してみて、
自分の軸がはっきりとしてきました。
そして課題も見えてきました。
武士道の7つの徳。
仁、義、勇、礼、誠、名誉、忠義。
その中で自分に足りないものは何か。
全て足りていないのは言うまでもないです。
でも特に足りていないのは、義、勇、誠。
足りないもの。
外面上は仁に過ぎて柔くなり、
流れに飲まれて。
その奥の内面は、
嫌われることへの恐れが動機。
それは心のない礼と同じ。ただの道化。
義を持っているつもりでも、勇がなかったんです。
義を見てせざるは勇無きなり。
自分の心に嘘を吐き、それを正当化し、
自分に対しても人に対しても、
誠に生きることができていなかった。
至誠にして動かざるは
いまだこれあらざるなり。
誠でなければ、
動いても動いても、ただじたばたしているだけで、
なんの意味も持たないのだから。
荒れた土壌も耕せば肥える。
ああなんと自分は愚かで醜いのか。
そんな心の声が聞こえてきます。
でもそんな浮かんでくる声も
自分の土壌が生んだもの。
そういう細かい感情に対して、
目をそらすことなく、一度は受け入れる。
日々の中で浮かんだらすぐキャッチして、
その雑草をひっこ抜く。
その積み重ねが土壌を肥やすのでしょう。
そして雑草に埋もれていない自分自身を、志の芽を、
いつでも顧みることができるようになるんです。
何よりも自分以外その土壌を耕す者はいない。
だから自分が諦めたら終わりなんです。
安西先生…っ!
志を育てる。
絶望や失望はいつだってある。
太陽がでないことも。
雨が降らないことも。
嵐が来ることもある。
雑草や虫に荒らされることだって。
でた芽を踏まれることすらあるかもしれない。
そんな環境の中で自分を見失い、
志が枯れてしまうこともあるだろう。
でも志の種はいつでも植えることができる。
それだけは忘れないでいよう。
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