ビジョンクエスト1日目 ー自然の声と想像力ー

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座ると汗が冷えて涼しくなってきて、風が心地よい。

どんな4日間を過ごそうかとぼんやりと考える。

何かテーマを決めて向き合うのか、ただ流れに任せるのか、どちらが良いのかは分からない。
とりあえずポツポツと心に浮かべてみることにした。

”自分の身体”
”心”
”過去”
”今”
”未来”
”世界”
”繋がり”
”地球”
”無”
”寝まくってみる”
”あるがまま”
”渇き”
”寒さ”
”小説”
”志”
”生きる意味”
”愛”
”自由”
”恋愛”
”感謝”

いくらでもある。そう思うと4日間とはなんとも短い気がしてくる。

では、そもそもなんで僕はこの「ビジョンクエスト」 に参加したのか。
それは詰まるところ、じっくりと、深く、自分と向き合いたかったからだ。

普段も別に蔑ろにしているわけではない。思いつくままに書き起こしまくったり、常に向き合おうとは努力している。いや、むしろ向き合うのが趣味というか人生の楽しみとでも言うのが正しい表現かもしれない。

そんな人間でも、日常の中では、心の内に深く立ち入れないような場所がある感覚は拭えないものだ。
自分の中の「当たり前」「常識」「無意識」。
ふとした外部からの言葉でその枷から外れることもあるが、普段は盲点となって目に映らない。

それらは自分を他人のように観察しながら対話を重ねることで見えてくることがある。
視野が広がったその瞬間の閃きがなんとも言えないほどに僕は好きだ。

実を言えば、こんなことは今この文章を書いていく中で思いついた部分も多い。

実際の僕はと言えば、

「ぼんやりとテーマを浮かべながらも流れの中に居てみよう」

くらいのことしか考えていなかったので、初日の僕は思考の整理もおざなりなままに寝袋に包まっている時間が多かった。体力の消耗度合いも未知数だったし、なるべくエネルギーを温存して体調を観察しながら色々とチャレンジしたりしようと考えていた。

生きる算段を計算高く持ち合わせている自分を少しダサいとも思いながら。


少しの間眠ってしまったようだ。

うつらうつらとしながら身体を観察する。

直接地面と接した背中や臀部はじわじわと熱を帯びて軽く痛む。肩や首や胸の辺りも少し硬苦しい圧迫感のようなものを覚える。足首にも凝り固まっているような違和感を感じるが、どれも別に普段から認識していることだ。

まあ柔軟性が足りないんだろう。赤ん坊や子供は本当に柔らかく、聞くところによると車のタイヤに体の一部を踏まれたり高いところから落ちても無傷だったりするようだし、硬い床なんかでも平気で寝ていたりする。

「俺にもそんな時期があったのかな」
「それくらいを目指したいな」
なんて思考が頭をすり抜けていく。

その後、対して重くもない目を開けると、少し暗くなり始めた空は一部に雲もかかり、先程までの暑さは風に乗って流れていったようだ。寝袋に足は埋めたまま、のそのそと外に這い出てあぐらをかいてあくび混じりに深呼吸をする。肩と首を軽く回すとゴリゴリと音を立てた。いつものことながらどうにかしたいものだな……

と、ふと小便をしたいことに気づく。

理性的にはあまり水分は失いたくないのだが、我慢したところで再吸収されるものでもないだろうと諦めて立ち上がる(再吸収されても複雑な気持ちでもあるが)。

聖域の中で一番大きな木の根元に、僕の体で余った栄養分の液体肥料を流す。これが木々の栄養になり、木々の実りになり、それを動物や虫が食して……そんなふうに循環するのだろう。
そう考えるとトイレに流してしまうよりも幾分もマシだ。

また、匂いがつくことで獣も寄り付きにくくなるだろうという打算的なメリットも大きい。
この山では猪が出ることもあるらしいし、出逢いたい気持ちもあるが人事は尽くしておこう。
何事もメリットデメリットがあるものである。

日が暮れてくると浴衣一枚では肌寒くなってきたので羽織をバックパックから取り出して袖を通す。
かっこいいからと持ってきたが、胸元ははだけていて脇から風も抜けるし、劇的な暖かさは得られない。

今日のところは全く問題ないが、濡れたりしたら装備的に本当に悲惨なことになるのは目に見えてわかったのでしっかり対策しようと再度決心を固めた。

17時のチャイムが鳴る。

何も持たないこの場所では貴重な情報だ。
この町では朝7時、12時、17時の計3回にわたって鐘の音が響き、時間を知らせてくれる。そのありがたさをこのビジョンクエストの時ほど感じたことはない。

全く時間がわからないと言うのは不安なものだ。時間を知れれば大体の目算が立つ。無粋な気もするけど、未来予測の安心感というのは凄まじいものだ。いつまで走ればいいのか分からないマラソンほど精神的にきついものはないだろう。

それはさておき。

まだ眠れそうな気がしたので、身体を瞑想の要領で観察しながら再び寝袋にくるまる。普段こんなに頻繁に眠りにつくこともないので変な感じではあるが、どのくらい寝られてしまうのかにも興味があった。

目を閉じて凝っている体の部位を観察していると、いつの間にか意識は深淵へと吸い込まれていく。


何か夢を見た気がする。

でも全く思い出せないから”ビジョン”なんかではないんだろう。

目を覚ますと辺りはすっかり暗くなっていたが、目を擦ると思った以上に明るいことに気づく。月が美しく輝いて辺りを照らし、木漏れ日のように枝葉の間から光を漏らしている。黒いくっきりとした木々の輪郭が昼間と変わらず認識できた。

中秋の名月。朧に雲がかかった月は満月に近く歓迎してくれているように思えた。視界が開けている場所を選んだ甲斐がある。吸い込んだ息を、はあと声に出しながら息を漏らして背筋と腕を伸ばす。なんだか普通にゆったりとした休日を過ごしているような気分だ。

秋に似つかわしい虫の声と風が枝葉を揺らす音に耳を澄ませば、心地よい気温も相まって夜の怖さや渇き、飢えなど微塵も感じる隙間はない。

小さい頃は夜の闇をもっともっと恐れていた。
人間の想像力というのは偉大なもので、こんな中に一人座っていたならその恐怖を具現化したような、もののけや妖の類を頭の中で生み出していたに違いない。

だけど同時に今は、目には見えないけれど同じ時を森の中で過ごしているみんなの存在や、火を守ってくれている研ちゃんの存在や、数多いる木の兄弟たちが見守ってくれていることを想像し、奇妙なほどの安心感を生み出してくれている。

「どこまで行っても人は独りきりにはなれない」

最近書いている小説のセリフが頭に浮かぶ。

目を開けばたくさんの兄弟たち(ネイティブアメリカンの文化では全てのものを兄弟家族として見ている)がいて、耳をすませばその声を聞くこともできる。人間は想像力だけで心の中で音楽を聴いたり、たくさんのことを思い浮かべたり、行ったことのない場所に行くことだって可能だ。

最近は「暇だー」とか言っている人を不思議に思うようにすらなっている。どうやったら暇になれるのか聞きたいくらいのもんだ。

こういう時間は何だかんだ久しぶりで本当に楽しい。

断っておくが、もちろんこんな風にいかにも詩的で外面のいいことばかり思い浮かべていられるわけでもない。

「帰ったら寿司食べたい」「温泉入りたい」「もっと暖かい服持ってくればよかった」「俺ってなんでこんなにモテないんだ」「コーヒー飲みたい」「ストレッチしたい」「アルスラーン戦記の続きめっちゃ読みたい」「シンデ〜レ〜ラボーイ♪」「唇乾いてきたかな」「何にも気付きとかなかったらどうしよ」「みんなと比べて俺は全然深い思考に入れてないんじゃなかろうか」「なんか寝てばっかりだな」「結局どう過ごそう」「最近は英語の勉強してないな」「くだらないことばかり浮かんでくるな」

こんな思考も乱立し、心の中はざわめいていることも多かった。ここには書けないような妄想も浮かんできたりもする。自分は所詮まだまだそんなものだ。悟りなんて程遠い。悟りたいのかも曖昧だけれど。

そうやって心が騒がしい時は、ふと心から離れて自然の声を聞くと、その静けさに感動する。

音がないわけではない。だけど心の中がざわめいている時のノイズは消え、虫の声や風の声が体に馴染む自然なリズムやメロディーとして染み渡る。

情報社会で疲れ切った人たちが自然を求めるのはこういうことなのだろう。

溜まった汚れを洗い流すように、自然なリズムへと連れ戻してくれる。

寄せては返す波の中で流されずに残したい大切なものだけをしっかりと握りしめていよう。

そうして1日目の夜はふけていった。

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