小説『海風』第16話

その顔は銃を突きつけられて恐怖に青ざめている。気の弱そうな男は涙目になりながら命乞いをし、銃を突きつけた男は荒々しく問いかける。
「お前のなりたかった職業はなんだ?」
命乞いをしていた男は一瞬何を聞かれたのか理解できなかったかのようにオドオドととうめく。
「お前の昔からの夢はなんだ?」
「早く答えろ!」
「獣医!」
「6週間後に獣医を目指してなかったらぶっ殺してやる。」
喘ぎながらコクコクと頭を振って夢を目指すと固く誓った男を解放し、タイラーダーデンは満足そうに見送った。
「走れ!フォレスト・ガンプ!走れ!」


「このシーン最高だよね!」
パソコンのモニターから目を離した私はふと横を見やる。先日のキャンプで少しは日に焼けたようだが、まだまだ青白い顔には感情はあまり見えない。味気のない上下グレーのスウェットは完全に部屋着で、彼女とのお家デートには良いのか悪いのか。整理された、というよりは物が少なすぎて汚れようがなさそうな生活感のないアパートの一室で私は君と『ファイトクラブ』を見ていた。映画の最中に話しかけられるという文化がない君は一瞬の間をおいて応える。
「でも結局タイラーは何がしたかったんだろう?」
「タイラーは人々を解放してるんだ!自分を生きろってメッセージだよ!」
私が君に言いたいのはまさにそこ!という言葉は敢えて言わず熱っぽく語る。
「なるほどね……夢を追っていないのは死んでいるのと同じ?」
「そうだよ!本当の自分を生きなくちゃね。」
理解が早くて助かるとばかりに私は大袈裟にブンブン頭を縦に振る。
「じゃあ僕は死んでいるのかもしれない。」
物憂げで諦観を滲ませているその声は、映画のセリフのように聞こえて、私は君の左頬にキスをした。
「目を覚ましましたか?お姫様。」
いきなりのことに目を瞬かせている君は「え、う、うん」と、か細い声で漏らす。恥ずかしさと、嬉しさ、それに心につっかえているのは、生きることに対する不安のような感情だろうか。複雑に入り混じっているのが分かる。
「まだ目覚めていないようですね。」
私は呆気に取られたままの唇に私の唇を重ねた。ビクッと少し力んだ後に、力が抜けたのが伝わる。私の頭を少し冷たい手がぎこちなく撫で、離れた唇から言葉が溢れる。
「残念だけど、どうやったら本当の自分を生きられるのか、僕にはまだわからないんだ。」
合わせていた目は少し泳いで右下の隅で止まる。思っていたよりも真剣なトーンで発せられたその言葉に、いつものように軽い調子で返すことはできなかった。下ろされて床を撫でていた手にそっと触れる。
「私も、私もわからない……」
言葉は続かなかった。なんとなく気まずい空気を作ってしまったような罪悪感に駆られている。こんな話題は急すぎたのかもしれない。君は君でもっと気の利いたことが言えたかもしれないとい考えているだろうけど、そんなちっぽけな嘘をつけないことも知っている。君が知らないのは、私が君を好きな理由の一つがそこだということ。言葉以外の繋がりを求めるように、重なっている手がなんとか二人をつなぎとめている気がした。
「映画はまたにしようか。」
口をついて出てきたのが現実逃避なのか現実的なのかよくわからない。それが少し可笑しくて、ちょっといつもの調子に戻って笑みを浮かべながら返事をする。
「そうだね。先が気になるなら見ちゃってもいいよ。私は5回くらい観てるし!」
「僕も3回目だから大丈夫。また一緒に観よう。」
「今度は別のにしよっか。何が良いかな〜」


本当の自分を生きることはなんと難しいんだろう。
誰もがそれを飲み込んで日々を生きていく。
私と君の日々は本物だったのか。
本物とはなんなのか。
生きるとは何なのか。
そんなことを考えられることは幸せかもしれないし、不幸かもしれない。
言葉にならない、目に見えない、この靄が晴れることはあるのだろうか。
それを晴らすことができるのはきっと……

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