小説『海風』最終話

温泉でかなりの時間をゆったりと過ごし、夕食も久しぶりにまともな食事をした。たった1000円の定食だったけど妙に沁みて泣きそうになり、手を合わせて「ごちそうさまでした」と呟く。
「おいしかったです。」
会計の時店員にそう伝えると、不思議とも驚きともつかない顔を見せたが、
「ありがとうございます!」
と歯切れの良い返事をくれた。

店を出て宿泊予定のゲストハウスへ歩く。足取りは今朝に比べて軽い。宿は安い割に個室で、チェックインを済ませて部屋に入ると、シングルベッド、テーブル、チェアのシンプルな部屋に荷を下ろした。まずはモバイルバッテリーやヘッドライト、スマホといった充電可能な機器をコードに繋げ、ベッドに腰掛ける。15分ほど簡単なストレッチをした後、買っておいたミネラルウォーターで喉を潤すと、何かやり遂げたような満足感を覚えた。もらった『グレープフルーツジュース』を捲ってみる。「地下水の流れる音を聴きなさい。」「心臓のビートを聴きなさい。」「地球が回る音を聴きなさい。」僕は一つ一つの言葉を味わいながら、想像した。ページを繰る手はゆっくりだが止まらない。前回読んだ時には大した感慨もなく読んだはずの本なのに、今は心臓を揺さぶられる感覚に突き動かされ、想像の海を泳いだ。物理的には聞こえない音を聴き、見えないものを見て、匂いを嗅ぐ。触れられないものにさわり、風を感じて飛んだ。そうしていつの間にか僕は眠りにつき、目を覚ました時は夜中だった。冷房も電気も消して窓を開く。暗闇に雨の音は聞こえず、湿った風に匂いだけを残していた。何度か深い呼吸をして、ベッドに戻りもう一眠りした。

朝、窓を開けると雨はもういなかった。近くのコンビニでブラックコーヒーとツナサンドイッチを買い、ブラブラと散歩をしながら朝食を済ませる。多少の筋肉痛はあるが、鉛が埋め込まれた体を引き摺っていた昨日とは違い、すんなりと足を上げることができた。宿に戻って荷造りをし、Wi-Fiのあるうちに今日の目標地点を大まかに決め、軽くストレッチをする。忘れ物がないかを再三確認した上で宿を出た。僕はどこへでも行ける気がした。

その後の数日間も歩きながらたくさんのことを考えた。両親のこと。彼のこと。彼女のこと。僕のこと。植物のこと。動物のこと。人間のこと。世界のこと。過去のこと。未来のこと。自然を眺め、自分を眺め、人や物を眺めた。風の声を聴いて、雑草の匂いを嗅いで、猫に触れた。全てがどうでも良くなって、全てがそのままで良いと思った。初めての感覚ばかりなのに、どこか懐かしくて、まるで全てが最初からそこに在ったかのようだった。痛くて、苦しくて、心地よくて、美しくて、醜くて、かっこよくて、嬉しくて、楽しい。それぞれの音が一つの曲を奏でている。どれもが教え導いてくれていた。ただ歩く、それだけのことに意味を与えてくれているのだった。ずっと諦めていたと言い聞かせてきたけれど、心の奥底で僕は世界を、自分自身を、愛し、信じていた。パンドラの箱の底。深淵を覗くとき、そこには希望があった。

砂浜から起き上がり、Tシャツを脱ぐ。頬を伝う汗も涙も拭わずに、砂をひと掴み掬って走った。熱砂を足裏で掴むように走り海に飛び込む。波に向かっていき、頭まですっかり飲み込まれると、纏った熱も、汗も、涙も、砂も、全てが溶けていく。熱は、一滴は、一粒は、流れてほどけ、どこへ向かうのだろう。ただ在るべき場所に行くと確信があった。波に逆らわずにいると、体は水中で回転し、世界に上下も左右も無くなった。僕自身もどこへ向かうのかわからないけれど、ただ流れを感じながら生きていきたい。顔を上げて息をする。太陽を見ていると、四角くなり、人の形になった。

僕は風を浴びていた。湿った体に冷んやりと包み込むような心地よい海風を。僕は叫んでいた。そして泣いていた。なぜかはよく分からない。身体中の傷に汗も涙も海水も、風に染み込んで流れ込んでくるみたいで、全身に、心に、沁みた。叫びたかった。苦しい訳じゃない。ただ叫びたかった。爽快で滑稽で楽しかった。ひたすらに感じたかった。そのために全てを吐き出さなくてはいけなかった。人目も海も自分も、彼も彼女も、何もかもが一度ごちゃごちゃになって、絡まって、それが全部ほどけていく。喉がしゃがれて、息を吐き切って、砂浜と海の境目に倒れ込んだ。なんだか可笑しくて笑いが込み上げる。ああ、やっとこの世に生まれ落ちたんだ、ふとそう思った。僕は生きている。これまでだって生きてきたけれど、今この瞬間に心の奥深くで殻を破って種が芽を出したような感覚があった。

これから人生が始まる、なんて格好つけたことは言わないことにした。本当は始まりも終わりもないのかもしれない。風もどこが始まりでどこが終わりかなんてない。全ては循環し、巡る。僕の命も、人生も、そうやって吹いては過ぎ去っていく。空はどこまでも深く見えるけれど、その先には宇宙が広がっている。海も地球を覆って、命を循環し、波は鼓動を刻む。世界はとてつもなく広くて自由だ。僕はちっぽけで、でも、自由だ。ちっぽけな僕の想像力は宇宙も海も心に描くことができる。未来も過去も、矛盾も孕んで、心臓は鼓動を刻み、心は揺れる。全てが美しくて、愛おしくて、時には苦しい。今はただ、何をするでもなく、全身の感覚を味わって、息をしていた。

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