小説『海風』第9話「彼の話」

俺はあいつのことが嫌いだ。

いつも自分の殻に閉じこもってウジウジしているのに腹が立つ。

俺自身への苛立ちでもあるのだが、それはそれとしておこう。

”彼女”(あいつはあの女のことをいつもそう呼ぶ)の死について知らなかったなんてのも嘘っぱちだ。

俺は誰よりもあいつらのことを知っている。

本人たちよりも。


「大学で『罪と罰』なんか読んでんのかよ。そりゃあ誰も話しかけないな」

あいつと初めて会ったのはこの時、大学に入って少し経ったくらいだった。とあいつは思っているようだ。まあ確かに友人?になったのはこの時だが。

「話しかけてるし…」

ボソボソと自信なさそうに答える。相変わらず眠たそうで暗いやつだなーと思いながら、俺はあいつのSNSを聞いた。こいつは厨二病のディストピア好きだから『素晴らしい新世界』を薦める。俺も好きだから人のことはとやかく言えないが。

あいつはバイトと読書と大学のルーティンで日々を送っている。せっかく上京してきたってのに、地元にいた頃と大して変わらない生活だ。いつも現実を避けようとしている。親からも逃げるようにしてこっちに来たってわけだ。本人は無自覚だろうけどな。

当たり前だけど俺とあいつは地元が一緒だ。千葉の片田舎。海は綺麗だがこれと言って特徴はない。あいつは全く覚えていないようでそこにも無性に腹が立つのだが、幼稚園時代から俺は親から虐待を受けてしばしば青あざを作っていた。俺の態度にも問題は多少あっただろうが園児に手を挙げるなんてのは馬鹿がすることだ。

転んだだけと取り繕ってはいたが、あいつも俺が虐待を受けていることは知っていた。知っていて、気づかないふりをし、記憶に蓋をしたんだろう。それとなく幼稚園時代のことを尋ねたが、ほとんど覚えていない様子だった。だけど俺はあいつの憐れむような暗く沈んだ目を一生忘れることはない。当の俺よりも闇を深めたようだから、物事の因果ってのはよくわからないもんだ。

大学に入って話しかけたのは、本当に偶然とも必然とも言えるが、思い出してほしかったからだ。いい加減に現実と向き合って生きてほしい。罪を自覚すらしないまま罰を受けようとしている姿に嫌気が差していたのもある。

大学で最初の長期休暇に入り、半ば無理矢理だが機会があればあいつをいろんなところに連れ回した。どこまでもインドアが好きな男を連れ出すのには幾分か骨が折れたが、「ファンタジー世界じゃない友人と過ごす夏は相当久しぶりだ」と珍しくにはしゃいでいたのは記憶に新しい。

地元を懐かしんでか、海にはよく足を運んだ。何か思い出すかもしれないという意図もある。

「海は嫌いなんだ。」

「俺もそんなに好きじゃない。」

「僕の場合はなんでかわからないけど嫌悪感があるんだ。色々と理由は考えているんだけど、有力なのは眩しすぎることかな。」

「お前が暗すぎるから眩しく見えるんだろうな。」

半分はギャグのつもりだったが、あいつは少し顔を顰めている。わかりやすいやつだ。本音は明るくなりたくて憧れている。そんでもって俺みたいな無駄に明るい奴から言われるのも嫌だったんだろう。俺はそんなことには気づかないふりをして続ける。

「俺の場合は海しか取り柄のない町で碌な思い出がないからだな。海からしてみりゃあ自分のせいじゃないってのに嫌われるってんだから可哀想な話だけどな。」

軽く笑いながらも、さりげなく何か心に刺さらないかと考えたが無駄だった。

「そうだね。僕は暗すぎて、なんだか生きづらい。みんなが能天気で馬鹿みたいにも思えて、そんなふうになれたらとも思ってしまうんだ。」

こいつはいつも自分の話をする。その割には自分の本当の奥底とは向き合おうとしない。表面的には「向き合って頑張ってます!だから苦しんでるんです!」という表情をしているが、ただ怖くて背けているだけだ。俺には荷が重いのかもしれない。

「もう帰るか。お土産とかもいらねえだろ?」

「うん。なんかごめん。というかさ、なんで嫌いなのに海になんて誘ったんだよ。」

「嫌いだからだよ。」

「意味わかんない。」

そんなこんなで8月のクラクラする日々が過ぎていき、俺たちが”彼女”と出会ったのは、いや、正しく言うなら”彼女”の存在をあいつが自覚したのは、9月に入り新しい学期が始まる直前だった。

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