小説『海風』第一話 「僕の話」

風を浴びたい。

吹き抜ける海風を。

僕は命を取り戻すだろう。

僕の重荷もきれいに、風と共に去ってくれるだろう。

海に沈んで。波にのまれて。太陽に届きそうな気がして。

最後はどこに行きつくでもなくただ海風として。


「君を愛していないんだ。」

「なら、君と一緒に過ごした時間には何の価値もなくなる。私は君を愛していたけれど、それは独りよがりな自分の快楽でしかなくなるの。」

「そうじゃない!そんなわけはないんだ…」

でも僕にはこのとき彼女にこれ以上何も言うことができなかった。

彼女の目は以前の輝きをなくし、その瞳は光を意地でも透かさない暗い雲が隠しているようだった。

「さようなら。」

待って。

彼女のうしろ姿にはその声すら通さない真空が広がっていて、僕の声は届かなかった。

待ってくれよ!

あるいは僕の中はいつの間にか真空になっていて、声なんか出せていなかったのかもしれない。

僕の視界から消えていく彼女は、冬の暗闇になってしまったかのように見えた。


あたりまえだけど、その日以来、僕は彼女に会っていない。

僕は本当に愛していなかったのだろうか。

それとも愛だと気づかずにいたのだろうか。

そんなことを今更また考えていること自体に嫌気がさして、僕はまたTwitterの画面に戻る。

明日、月曜日とかだりい(-_-)

友人の投稿に僕は「いいね」を押す。でも別に良いとは思っていない。

見ているし共感もしているというアピールだ。

確かに月曜日は憂鬱ではあるのだし。

愛って何だろう?

一度打ったツイートを投稿せず消す。下書きにも残さない。

彼女と別れたのはもう半年も前のことなのに、こんなに思い出してしまうのはもうすぐ彼女が好きだった夏が来るからだ。

彼女は夏を愛している、そう言っていた。

僕は暑いからあまり好きではなかった。

私は夏で夏は私なの、彼女は続けて言った。

それが愛ならば、やはり僕は彼女を愛していなかったのだろう。

彼女と僕は全く違ったのだから。


海を眺めていた。

その日も嫌になるくらいに暑くて、太陽が僕らを火あぶりにでもするようだった。

僕は目を薄めながら、腕にジワリと浮かんでは流れる汗と、ドロッとした波のうねりが白くなって砂浜に押し寄せるのを交互に見ていた。

強い風が吹いて、彼女の麦わら帽子が飛びそうに空気を含んだ時、彼女はそれを両手で押さえながら言った。

「私、海風が好きなの。」

確かに今の風は、乾燥したワカメのように火照った僕の髪の毛をいくらか冷やしてくれたし、僕の体温を少し下げてくれた。

「海風って海に吹く風?海から吹く風?海の上で吹く風?」

「知らない。でもどれも海風なんじゃないかな。それに、私が海風って思ったらそれが海風だもん。」

そういう問題なのだろうか?彼女の理屈にはあまりついていけない。

「じゃあ今の風も?」

「今のはぜんっぜん海風じゃない。」

二人で笑う。

僕は彼女の笑った顔が好きだ。いつも滞りなく動く顔の筋肉は僕とはつくりからして違う気がする。

「いつか君にも海風が分かる時が来るよ。」

彼女はそう言ってまた笑った。


海風か。

僕は海まで歩くことにした。

ふと思いついてしまったから。

彼女はドライブよりも歩くのが好きだったから。

この町には海はないし隣町にもそのまた隣にもないけれど歩こう。

僕にも彼女が言っていた海風が分かるようになるかもしれないから。

海まで歩いてみる。どれくらいかかるか分からないけれど。海風を浴びたいんだ。

「いいね」は要らない。これは僕の決意。

そういえば、明日は月曜日だ。

大学はサボることにしよう。

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