小説『海風』第21話

「お前なんか生まれてこなきゃよかったんだ!」
怒鳴り散らす声。父親はいつも不機嫌だった。人間は誰かを痛めつけることで快感を得ることもできる。古くからのDNAに刻まれた闘争本能であり、暴力は脳を刺激してアドレナリンを噴出させる。弱者をいたぶって自分の優越感を確保するのはどう見ても弱さへのコンプレックスであり、心にゆとりのない者ほどそんな短期的な欲求に支配されてしまう。社会で碌でもない扱いを受けてきた父親にとってはストレスの捌け口として、手頃でちょうど良かったのかもしれない。だが、あんな奴の事情なんて知ったことか。子供の揚げ足をとっては殴り、蹴飛ばし、首を絞めて、暴言を浴びせかけて自らの鬱憤を発散するなんてクソ野郎だ。そんなことだから社会でクズな扱いを受けてその連鎖に陥ることになる。まあこれはあくまで後から想像したに過ぎないのだが。

「お前のせいだ。お前みたいなのが生まれてどれだけ迷惑してると思ってる?お前にいくら金を使ったと思ってるんだ?なんだよその顔は!知ってるか?親は子供を殺してもいいんだよ!」
支離滅裂で論理の通らない暴言を浴びせられながら、髪を鷲掴みにされて壁に叩きつけられた。背中を強く打って一瞬呼吸が止まる。「嫌だ!助けて!」と叫びたいが、息をするのに必死で言葉は声にならず、ただの荒い呼吸音にしかならない。眼差しで助けを求めて母親を見やるが、部屋の片隅で怯えるだけで、目を合わせようとしない。毎日のことではなかっただろうが、強烈な印象に塗りつぶされてしまった記憶には、そんな日常以外を受け入れる余白がなくなっていた。

醜い汚物であり、世間様に顔向けするには当然の躾なのだと言い聞かせられ、自分の存在はこの世界にとって不要なのだとしか思えなかった。誰も望まない子供。それでも、生きてはいた。少なくとも死んではいなかった。学校なんかから帰るといつも夕食だけは用意してある。世間体を気にしてのことかもしれない。思い返すと顔だけは目立つほどひどく傷つけられることはなかった。間違いなく本当に殺すことができるほどの度胸はない。器の小さい人だった。

小学校高学年まではそんな腐った日々の連続。どこにも居場所はない。あざだらけで学校へ行っても誰もが見て見ぬふりをする。心を開くことができない自分の責任でもあるし、何より助けを求めて裏切られるのはもう御免だった。人と目を合わすことすら怖かった。一つの大きな転機があったのは中学に入る直前。父親は急にどこかへいった。俺がある程度成長して、前ほど痛ぶれなくなったからかもしれない。あんな田舎からどこへいったのか見当もつかないが、あんな奴のことなんて考えたくもなかった。死んでたらいいとさえ思う。まあ兎にも角にもアイツは出て行った。母親と俺を置いて。そこから先はほとんど俺の出番はない。舞台上の役目は終えたと言う訳だ。

そこまで言うと彼は深呼吸をして、僕に向かって話しかけた。
「全部、お前も見ていたし知っていた。ずっと影に隠れて俺を見殺しにしたんだ。思い出しただろう?」
「わかってる……僕は卑怯だ。」
彼はようやく理解してもらえるのが嬉しいのだろう。楽しそうに続ける。
「知ってるさ。俺はお前だからな。」
話を聴きながら全てを思い出していた。吐き気と罪悪感が押し寄せて、嘔吐しそうになるのを必死に堪える。喉まで込み上げる酸っぱくて苦い吐瀉物を飲み込んで、言葉だけをなんとか吐き出す。
「それは少しだけ、語弊がある気がする。」
「まあ、そうだな。俺はお前の別の人格。タイラーダーデンだ。生まれたのはお前が4歳の頃。」
「僕の最初の記憶。恐ろしい父親の形相と理不尽な暴力に耐えきれない恐怖を覚えた時。」
「そう。お前は逃げた。存在価値を否定され、お前は俺という身代わりを生み出した。父親がいなくなるまでの間は基本的に俺がお前の主人格だった。」
「僕は君という強い人格を持たなければ、生き残れなかったんだ……」
言い終えないうちから声は震えて目が潤んだ。鼻声になりながら何とか続ける。
「僕はあまりにも弱虫で、汚い罪人だ。君に罰だけを押し付けた、咎人だ。本当にごめん。許されないのはわかってる。」
「ああ。俺は許せなかった。役割を終えた俺という存在は死んだ。正確には潜在意識の底に眠ることになった。せっかくしんどい思いをして、やっと本当の意味で生きられると思ったところで終幕だよ。何より一番イラついたのはお前がそのチャンスを活かせなかったことだがな。」
そうだ。僕は彼を犠牲にして生き残った。なのに、その罪悪感に押しつぶされそうで、見ないようにした。彼という存在を分断して、他人だと思い込んだ。その過去を無かったことにしたんだ。そのくせその罪が周りにバレるのを恐れて人の目を気にして常に怯え、結局誰にも心を開かずに今日まで生きている。生きるとはどういうことなのか。いまだに僕にはよくわからない。どう生きたら良かったのかも。
「潜在意識の中で俺はお前に訴え続けたさ。なんでだ!せっかく自由になれたのに!俺の努力を無駄にするのか!ってな。そして大学に入って親元を離れたタイミングで、お前の心に少しのゆとりが生まれ、そこに俺は割り込んだ。幻覚みたいなものとしてもそうだし、たまにお前の意識を奪って生きてやった。最近は特に意識が薄弱だったから、バイトなんかも俺が顔を出してたんだぜ?だからこの数ヶ月お前は悩むだけの時間を生きていられたんだ。」
僕は彼みたいに生きられたらどんなにいいだろうかって思っていた。僕にはとてもじゃないが無理だって決めつけていたけど、でも彼は僕が生み出した、理想的な強い自分だったんだ。では彼女は?

「私の話もしないとね。」
目の前には彼女がいた。そう。彼女も僕だったんだ。

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