たとえ同じ景色を見ていたとしても、感情という絵の具をどう塗りたくるのかによっては、煌めいた情景ですら鬱陶しく思えたりもする。それは同じ人間であってさえもだ。
「んん〜!きっもちいぃね〜〜!うみっ!」
”彼女”は大好きなお菓子でも頬張るみたいに大きく息を吸い込んで、リラックスした猫のように伸びをする。日焼け止めの効果なのか、単に出不精なだけなのかは定かではないが、オーブンに入る前のベーグルみたいな腕を天まで届けとばかりに。ノースリーブのワンピースから覘く腋に不本意ながら目がいく。本能というのは厄介だ。鍔の広い麦わら帽子はその腕に押しのけられて居場所を失い、砂浜に着地する。
「おい、帽子落ちたぞー。」
「いつもやっちゃうんだよね。ありがと!」
”彼女”は申し訳なさや反省の色が一片も混じらない笑顔で受け取る。
「やっぱり海はいいよねぇ!今日は天気もベストだし!ほら見てよあの表面のキラキラした反射光!引き波の砂と混じった感じが好きだな〜。」
「本当、綺麗だね。」
「おいおい!その言い方は含みもあるだろ、意外とやるなお前。」という言葉を飲み込む。俺にとってはチカチカと切れかけの蛍光灯みたいに思えるこの景色も、人によっては宝石みたいなものなんだな。なんてことも口には出さないでおこう。
「よっしゃ!入ろうぜ!とその前に、」
カシュッ。小気味いい音は爽やかさと条件づけられていて、音だけでも気持ちがいい。グビグビ。
「プッハァーー!これだよ。これが最高の夏だ。」
「いやあんた18でしょ!」
「俺は8月が誕生日だから19!残念!不正解!」
「どっちにしろアウトじゃん。」
「人生にはクラクラと脳をバグらせる時間も必要なんだよ。それは未成年だろうが成人だろうが関係ない。むしろ未成年のうちに適度に麻痺らせておかないと後々になって拗らせると俺は思うね。」
「まあいいや、こんな自己破壊主義者は置いといて、私は足だけ浸かろう〜っと」
「僕は見てるよ。」
「いいから行くぞ〜。男は黙って水浸しになればいいんだよ。」
まだとても秋とは呼べない夏の強い残り香とちょっぴりのアルコールで少しクラクラする。この自分の理性が外れていく感覚が気持ちいいと感じてしまうのは俺がバグっているからなんだろうか。
「僕ふつうに泳げないし怖いから無理。」
南房総の外側、いわゆる外房の海は波が高い。寄せ集められた服の皺みたいな波は音を立てて崩れながらスープを作り、そこにサーファーたちが群がっている。
「波に飲まれるのが楽しいんだよ。自然の圧倒的力になすすべなく流されてそれに逆らわずに揉まれるんだ。身体が回転して、砂が擦りついて、目や鼻に塩水が染み込んで……。そして海面に出た時に息を思いっきり吸い込むんだ。生きてるって実感できるぞ。」
「そんなことしなくても私たちは生きてるからね!これだから酔っ払いは〜!暑い日差しの中でヒンヤリとした水に触れるだけでいいんだよ。苦しんでからじゃなくたって思いっきり息を吸い込んでみたらいいじゃん。思いっきり今を感じれば生きてるって思えるよ!」
「まあ、感じ方は人それぞれだからいいんじゃないかな。僕は生きてる実感が欲しいのかもよくわからないし。」
”彼女”の綺麗事にはうんざりするし、あいつの言葉はずっと曖昧で消えかかっていていて、もやがかかっているようだ。でも本当は”彼女”を少し羨ましいとも思っている俺も心のどこかにはいるし、俺だって生きてる実感の必要性はよくわからない。
「俺らって全然ノリが合わないよな。それが好きなんだけどさ。」
俺は2人に背を向けると海に向かって走る。
視界は少しぼやけて見えた。
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